判決文に続いて、園さんが執筆した控訴趣意書を掲載します。
(先週末に東京高裁に提出済みです)
平成25年(う)第947号
威力業務妨害被告事件
控訴趣意書
2013年7月12日
東京高等裁判所第5刑事部御中
被告人 園 良 太
私の威力業務妨害被告事件につき、本年4月18日に言い渡された東京地方裁判所の判決に対する控訴の趣意は以下のとおりである。
私は東京地裁の裁判長・大野勝則らによる判決がわずか数分で終わったやる気のなさに衝撃を受けた。4ヶ月もの監禁生活の苦しみや、1年に渡る裁判の弁護団・救援会の努力を根底から踏みにじったからだ。懲役1年を求刑した検事も、裁判官大野らも、もはや人間の感性を持たず職務を右から左へ流し込むだけのロボットである。その過程でどれほど人権や社会正義が失われていても、自らの地位さえ安泰なら良いのだ。私達は即座に東京地裁周辺で怒りのデモを行い、竪川河川敷公演のある亀戸で報告集会を行い、百人もの人が集まった。だがその後も地裁も判決文を私達に1ヶ月近く送らず、ようやく届いたそれはわずか7Pの文書だった。大野らは端的にこの裁判への「やる気」がないのであり、その事に激しい怒りを持つ。この判決は、やる気も気概も独自の思考も一切持たないため権力への服従しかできない裁判官と、新たな弾圧手法を生み出したい公安検事との合作だ。その問題は、1:判決文が無内容の極み、2:威力業務妨害は全く成立していない、3:抗議要請の権利を潰す事は許されない、である。
1:やる気のない判決文は許されない(刑事訴訟法378条4号の理由不備、同法379条の訴訟手続きの法令違反)
わずか7Pの判決文、内容以前にこのやる気のなさそのものを断罪したい。まるで検事が原文を書いたかのようだ。判決文がスカスカなのは、私達の主張を根拠説明なく切り捨てているからだ。私達が力を振り絞って主張し続けた「野宿者に対する江東区役所の施策・対応の違法性や是非」を「飽くまでも背景事情にとどまる」と書くが、それがなぜなのかの説明が全くない。裁判官は施策の判断を全て避けてしまった。江東区の行政代執行や窓口対応はあまりにもひどく、そこに踏み込んだら有罪など出せないからだ。だが結論だけ書くなら小学生でも出来る。地裁は職務責任を放棄したのだ。
それ以外も結論を繰り返すだけで説明が全くない。まず「動画と関係証拠を総合すれば、威力業務妨害が認められる」というがそれがなぜなのかを説明していない。職員が私を排除した行為は、庁舎管理権の許容範囲内だと言うが、では何が範囲内で何が範囲外かの定義や具体的事例の説明が全くない。排除された後の私の行為も、職員が業務に戻ることを妨害するに十分だと言うが、それも根拠説明が全くない。さらに私に威力業務妨害の故意があったと言うが、私の言動を悪意で判断しているだけである。もちろん私にその故意はない。これでは「抽象的危険犯」の復活であり、絶対に許されない。そしてこれは政治的弾圧・控訴権の乱用だという弁護団主張に対し、「認められない」「理由がない」で切り捨てた。だがなぜ器物損壊罪を弁償したらわざわざ威力業務妨害に切り替えてまで起訴したかの説明が全くないではないか。「理由がない」のは地裁の方だ。そう、総じてあまりに「やっつけ」なのである。
こんな手抜きの極みで「懲役1年、執行猶予3年」の有罪を出せる訳がない。日本の獄中がどれほど非人道的な場所かは最終弁論で詳述した通りで、あと1年も入るなどという凄まじい人権侵害には絶対に当てはまる訳が無い。手抜きの極みの判決文から控訴審が始まり、公判回数が少ないこと自体が許されない。東京高裁はこちらの要求をすべて認め、被告人の私の意見陳述を認めよ。こちらの主張を一方的に切り捨てた一審に続き、二審で当事者からの意見を封殺することは許されない。東京高裁は地裁判決の手抜きを直視し、無罪にせよ!
2:これは威力業務妨害でない。抗議・要請行動は人々の権利だ。(刑事訴訟法380条の法令適用の誤り、同法382条の事実誤認)
判決の最大の問題は、威力業務妨害がでっち上げで、それゆえ論理構成が完全破綻していることだ。自体自治体はそもそも市民の要請や抗議への対応は義務であり本来業務だ。昨年2月9日の江東区も従来通りの窓口対応をしていればまだ話は進んでいた。2月8日に暴力的な行政代執行を行い、9日も責任者の荒木が逃げ出し、窓口で無意味で不誠実極まる対応を繰り返し、あげく私達を庁舎から強制排除した江東区に全ての責任がある。検事と裁判官はそれを隠すために、私と他の仲間の窓口抗議内容を切り離し、私をまるで凶悪な粗暴犯に仕立て上げた。あまりに無茶な決めつけだ。
また判決では「区が妨害された業務とは何か」「私のどの行為が妨害にあたるのか」の双方が全く特定されていない。そんな状態でよくぞ判決など書けたものだ、よほど何も考えていないのだろう。私は刑罰になることなど何もしていない。だから判決の「罪となる事実」でも強制排除後に村松らに抗議したことしか挙げられていない。しかしそれではあまりに足りないので、「大声を上げて抵抗した」だの「カウンターにしがみついて怒鳴り続けた」だのと排除前の言動を付け足したのだ。しかし区の職員こそが先に突然暴力を振るってきたのであり、私はそれから身を守ろうとしただけなのは最終弁論で詳述した通りだ。
検事は、大声を上げたりしただけで何ら被害がなくても職員の「通常業務」を妨害したことになる、という求刑を行った。地裁はそれをこのように完全に追認して有罪判決を出してしまったのだ。これでは行政機関に対する抗議・申し入れ・陳情といった正当な行為が、悪質なクレイマーのような挙動犯とされ、何ら具体的な被害がなくとも威力業務妨害の故意にすり替えられてしまう。その結果、逮捕・起訴・長期勾留ができてしまうようになる。これは際限なき萎縮効果を生む恐るべき判決だ。
そもそも当日の抗議団を排除するための職員による警備体制は、「通常業務」として予め仕組まれていた。検察が作成した職員の供述調書に「警備計画書」が添付され、職員自身がその事を法廷で証言し、弁護団も何度も指摘・追及した。それにもかかわらず、検察・裁判所はその事実を無視し、庁舎管理権で許される正当な排除だと述べたのだ。裁判証拠を無視して判決を出すのは最早裁判所の犯罪だ。
また江東区は突然「庁舎管理規則」を読み上げ、役所から私たちを宙吊りにして強制排除した。その手法は暴力そのものだ。庁舎管理権は本来内部規則に過ぎず、外部の利用者にいきなり適用できるものではない。しかも中身も行政の都合でいくらでも変えられる。現に江東区は竪川住民と支援者に「4月1日から庁舎管理規則で庁舎内への立ち入り・写真撮影を禁止する」と一方的に通告しているのだ。これは行政の責任放棄であり、請願権や憲法で保証された表現の自由への侵害である。
自治体や検察は、今回を警備業務への妨害ではなく「通常業務への妨害」で有罪にできれば、市民が行政に抗議要請をした際にただ大声を上げたりしただけで、「職員が通常業務を中断して対応せざるをえなくなった」として「威力業務妨害」に仕立て上げられる。それも運動側が今まで同様の抗議をしていても、行政が勝手に警備体制を強めただけで、知らないまま運動側の罪にされてしまうのだ。これにより、自治体は抗議要請対応も本来業務という「重石」を捨て去る事ができ、どんな悪政も可能になり、自治体・警察・検察は自らの意のままに誰でも逮捕・起訴・長期勾留ができる恐るべきフリーハンドを得られてしまうのだ。検察は「威力」概念の拡大という新たな行政抗議潰しを開発し、裁判所は追認した。福島の被害者や貧困層は増え続けており、行政への抗議も今後増大する。それを全て潰す事が「威力業務妨害起訴」の狙いなのであり、裁判所もそれを受け入れたのだ。こうして不当な内部規則と刑事法で次々弾圧し、行政を聖域化する事を絶対に許してはならない。これが控訴審の最大の主張である。
3.問題の背景を重視し、相次ぐ弾圧から自由と権利を守るために、無罪にせよ!
行政が独裁化し、私達の抗議要請の権利を踏みにじる弾圧は、私の地裁判決後も続いている。全てにおいて社会問題の背景や抗議要請の必然性を切り離し、行為のみを暴力扱いすることで、勾留や裁判が正当化されている。竪川現地は5月末に三度目の行政代執行手続きが開始され、庁舎への立ち入り禁止も続いている。完全にマッチポンプであり、竪川の仲間の生きる権利は絶対に守られなければならない。原発事故への責任を放棄して再稼働へ突進する経済産業省は、5月10日に「経産省前テントひろば」の参加者を不当逮捕した。職員が参加者を挑発し、「暴行された!」とありもしない罪をでっち上げたのだ。それも竪川弾圧と同じく行政と警視庁丸の内署が連携して行った。富山、静岡、沖縄北部の高江でも、国や自治体が政策を拒否する住民を自ら訴える「SLAPP訴訟」が多発している。
そして東京・新大久保では在日朝鮮人への凄まじい差別・排外主義のデモが連続で行われエスカレートしている。だが元々アジアへの敵意を煽っている日本政府や警察は放置し続けている。あげく差別デモに抗議する側を規制し、6月16日に4人も不当逮捕した。この内1名は20日間も勾留されてしまった。勾留理由開示公判で裁判官は竪川弾圧と同じく差別の深刻さや抗議の正当性などの背景に一切触れず、「暴行」だけを強調したのだ。
そして福岡では原発事故から避難し生活保護で生きていた女性が、ケースワーカーへの「暴行」をでっち上げられて6月25日に不当逮捕された。背景には生活保護の一大削減と凄まじいバッシングがあり、いま各地の福祉事務所の窓口に警察OBが配置されている。ケースワーカーはすぐ警察に通報し、警察はすぐに逮捕して翌日には本人が住む労組事務所へ家宅捜索まで行った。行政と警察の連携、様々な活動に関わる人と団体への狙い撃ち、まさに私と同種の弾圧である。
こうして見ると、正当な抗議行動への弾圧はあらゆるテーマ、あらゆる地域で起きていることがわかる。警察・検察は原発・貧困・戦争への異議申し立てが広がる事を押さえ込みたいのだ。だが全体の利益の為に働かねばならない公務員が、自分たちの生きる世界を少しでも良くしたいと願う人々の行動を押さえ込むなど許されない。まして自らへの要請や抗議を受けつけるのは責務だ。裁判官は権力者による事件の問題の切り縮めを許さず、抗議要請の必然性から判断する事が責務だ。今まさに時代の転換点にある。私たち一人ひとりが政治や社会を民主的に作り上げていくか、機能不全の行政が独裁化して悪政を進めていくかだ。そして竪川弾圧裁判には、抗議要請の自由と権利を裁判所が認めるのか、放棄するのかが懸かっている。私たちはこの控訴審の闘いに必ず勝ち、後者を実現させる。高裁は無罪にせよ!
以上